ミッシェルガンエレファントと会えない友達のこと3
✅名盤「ギヤ・ブルーズ」を経て「カサノバスネイク」を発売した時の感想。
✅ 2000年当時を回想する内容です。
✅ ミッシェルエレファントが好きで当時(20年前)を感じたい方におすすめです。
✅ 好きなバンドに夢中だったことがある人には通じる話しがあるかも。
カサノバスネイク
- 1 デッド・スター・エンド
- 2 コブラ
- 3 ヤングジャガー
- 4 プラズマ・ダイブ
- 5 リボルバー・ジャンキース
- 6 ダスト・バニー・ライド・オン
- 7 裸の太陽
- 8 ラプソディー
- 9 夜明けのボギー
- 10 シルク
- 11 ピンヘッド・クランベリー・ダンス
- 12 アンジー・モーテル
- 13 GT400
- 14 ピストル・ディスコ
- 15 ドロップ
2000年2月2日ミッシェルガンエレファカトは「GT400」を経て「カサノバ・スネイク」を発表します。「ギヤ・ブルーズ」が憂鬱を持ち続けながらも熱っぽく疾走していく、スピード感溢れるアルバムだとしたら、カサノバスネイクはシンプルな作りのアルバムでした。
チバの声が以前よりもよりしゃがれて聴こえ、ギターは鋭く鳴り、リズム隊はグッとくるビートを刻んでいましたが、こなれた感が増した気がしました。ジャケットの彼らはなんとなく「THE ROOSTERS」を彷彿とさせます。彼らの広い引き出しにある色々な種類のロックを自身のスタイルに昇華したという感想でした。
個人的には「リボルバー・ジャンキーズ」や「ピストルディスコ」「ドロップ」が好きでした。このアルバムの出で立ちを見て、怖そうな人たちと感じた人もいたのでは。逆に雰囲気が変わったてからのミッシェルが好きだという方もいました。ただ、私は彼らの変化にうまくついていけませんでした。
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カサノバスネイクツアーは2公演観る
私は4hアルバム「ギヤ・ブルーズ」が何よりも好きでカサノバスネイクはそこまで心に響きませんでした。マッシュルームヘアのチバさんが好きで、オールバックはのめり込めない、とか、ミッシェルの繊細な感じが損なわれてしまったとかくだらないことを考えていました。
しかしせっかく知り合えたもこちゃんとカサノバスネイク・ツアーには2公演行きました。2000年5月21日の郡山hip shotには高速バスで参戦。もこちゃんの友人も来て3人でミッシェルの新しい幕開けを体感しに行きました。郡山hip shotは小さな会場でぎゅうぎゅう詰め、熱気に溢れていました。そんな中、タバコを吸っている人がいたと記憶しています。(ライブ会場は混み合うため怪我人が出るのを防止するため基本禁煙が多いはず。タバコを吸っている人と周りがトラブルに思いました。前方までタバコの匂いがして、噂が聞こえてきました。)
また2000年7月7日の「仙台Accel」で行われたライブにももこちゃんと行きました。新しいアルバムの音楽たちに観客は沸き、新ミッシェルを喜んでいる人の姿が感じられました。
「仙台Accel」は2011年3月11日に津波を受け、しばらく再建まで時間がかかったイベントホールです。2020年現在は「夢メッセ西館」と名前を変えて運営しています。
ミッシェルともこちゃんとその後
私はやはり「ギヤ・ブルーズ」の音が忘れられずそれ以前の初期ミッシェルも好きで「カサノバ・スネイク」にはハマれずにいました。私がミッシェル熱病に冒されていた日々はこの時過去のことになっていました。
初期ミッシェルから聴いていたもこちゃんも時同じくしてカサノバスネイクはピンとこなかったようです。2000年7月7日に一緒にライブを観てから私たちの連絡はだいぶ少なくなっていきました。
もこちゃんにはその時から彼氏ができたそうでした。今思うとミッシェル以外の共通項を持たなかった私たちは、好きな食べ物も、恋愛感も、友人関係についても知らないままでした。
後悔しても遅いこともある
もこちゃんについて覚えているのはお姉さんを白血病で亡くしていたこと。ライジングサンの前泊で札幌に一緒に泊まった時、初めて明かしてくれました。
「お姉さんが亡くなったことについて考えてしまい、夜が来るのが辛いことがある」
「自分はいつ死ぬか考えないためにミッシェルに自己投影している」
と、誰しもいつか向き合うことになる身内の死について20歳で直面していたもこちゃん。
私はその話しに対して、何か答えられたでしょうか。たぶん困惑して「明日は初めてのライジングサンだし、とにかく楽しもう!」くらいを言うのが関の山だったのではと思います。何か言葉をかけたかったけど人として心の交流をするにはあまりにも経験の少ない20歳でした。
その後もこちゃんと私は会うことも連絡をとることもなくなりました。同じ趣味というだけで、心の通いあう友達までにはなりきれていなかったのだな。自分の青さを切なく思い出します。あれから20年たった今、私はあの時のもこちゃんにかけてあげる言葉があるだろうか、と考えます。
ミッシェルは2003年に解散する
私ともこちゃんが交流しなくなったあともミッシェルガンエレファントは活動を続け、アルバムを発表しています。ミッシェルがメジャーで活動をしたのは、わずか6年で私がライブに行っていたのは2年くらいの期間でした。後世に影響を残したバンドは短い期間しか活動していなかったのですね。
今、ミッシェルのことを書くに当たって彼らのアルバムを改めて聴き直してみてました。5thアルバム「ロデオ・タンデム・ビートスペクター」6thアルバム「SABRINA HEAVEN」はほとんど聴いたことがなかったのですが、今回聴いてみました。ギヤ・ブルーズ以降新しい彼らの表現。発売から20年くらい経過した今も、色褪せていないと感じました。
また若い自分には理解しきれなかった良さを「カサノバスネイク」に今見つけることができきました。結局音楽の良さはその時の自分に合うかどうかなのだと感じます。
私は「ギヤ・ブルーズ」にハマり、それ以前のミッシェルも大好きになったことはかけがえのないことでした。一緒の趣味の仲間がわずかな時間でもいたことも、どこかで歯車が狂えば実現し得ないことだったと思います。
終わりに
ミッシェルガンエレファントが好きだった個人的な2年間の記録でした。そして、2009年7月22日にギターのアベフトシが急逝しました。ミッシェルが解散して6年経っていても訃報を聴いた時は衝撃を受け、悲しみに暮れました。数々の痺れるリフを生んだ鬼才がもうこの世にいないことが今だに信じられません。ありがとう、アベさん。私はアベフトシのギターとミッシェルをこれからもずっと聴いていきます。
以上で「ミッシェルガンエレファントと会えない友達のこと」を終わります。いつか私の大好きなミッシェルの曲をお知らせ出来たらいいなー。最後までお読み頂きありがとうございました。
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