春の別れが寂しい2〜さよならだけが人生だ〜

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ハムスターのつもりの
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春の別れが苦手です。
さようならの多い時期は憂うつです。

昔から春の別れが苦手だった私が、高校生の時に出会った「さよならだけが人生だ」という名言について調べたことを書いています。

さよならだけが人生なのか?

前回、春の別れがいつも寂しいことについての記事を書きました。その時、思い出した言葉が下記です。

この盃を受けてくれ  なみなみとつがしてくれ
花に嵐のたとえもあるさ  さよならだけが人生だ

井伏鱒二 「厄除け詩集」より

この言葉は井伏鱒二の晩唐の詩人、于武の「勧酒」を訳したものです。描かれているのは友人と別れ際にお酒を飲み交わすシーンです。最後だからとお酒を盃に注ぎ飲んで別れようとする友人たち。さよならだけが人生だと、この勧酒は言っています。人生がさよならだけだとしたら、そのことを人はいつ知るのでしょうか。今回私ごとですが、人生も折り返し地点に(きっと)突入したので、さよならだけが人生だという言葉について考えてみました。

前回書いた春の別れが寂しいことについてはこちらです↓

「さよならだけが人生だ」との出会い

私がこの言葉と出会ったのは20年以上前、ピチピチの?(死語)高校生の冬でした。
バイト先で仲が良かった先輩が就職して遠くに行ってしまうことが判明。別れの経験の少なかった私は寂しくて倒れそうになりました

当時はポケベルがやっと普及していた頃です。県外に行き寮に入って働く先輩が大人に感じ、遠い存在になると思いました。ほぼ毎日会って仕事を共にし、色々話しをしていた先輩。気さくでいながら大人っぽく見えた年上の人でした。

就職をすることは知っていましたが、県外に引っ越しして会えなくなってしまうとは・・・。この時の私に先輩に会いに行くという選択肢はありません。狭い世界で生きていました。高校生の私は言い知れない気持ちに途方に暮れてしまい、そんな胸のわだかまりを高校の先生に聞いてもらいに行ったのです。

さみしいときの呪文

呪文を受け取った時
画像はイメージです

私が話を聞いてもらいに進路指導室まで訪ねた先生は古文の先生でした。授業をそっちのけで芸能の話しから学ぶ現代マナーを一時間話してくれたり、社会を生き抜くための術をブラックユーモアを交えながら話してくれたりする、個性的な先生でした。先生は劇団を運営して舞台を上映したり、活動的に過ごしている人でした。

先生は私の悩みをただ静かに聞き、ふんふんうなづいた後
「ではこれを毎日唱えてください」と一言。
悲しい時の呪文をメモに書いてくれました。

ダイセンジガケダラナヨサ

逆さから読むと「さよならだけが人生だ」となります。私は先生に「元気を出しなさい」「高校生は勉強しなさい」と叱咤激励されると思いました。しかし、人生はさよならだけだという言葉をただ伝授されることになりぽかんとしてしまいます。

希望に満ちているはずの高校生に「人生はさよならだけ」と教えた先生。どうして?と衝撃を受けました。むろん、高校生の私がこの言葉を正しく理解できるはずもないのですが、それから人生を考え始めるきっかけになりました。

呪文を聞いてから20年強。私の寂しがりは、あまり変わりません。ですが、節目の別れのやるせなさに「さよならだけが人生」という言葉を度々思い出しています。

「さよならだけが人生だ」と寺山修司

「さよならだけが人生だ」という言葉について改めて調べてみたところ、寺山修司と深い関係がありました。ご存知の方も多い有名なことですが、拙い言葉ですみません。紹介します。

寺山修司の「幸福が遠すぎたら」

寺山修司は1983年に亡くなった劇作家で歌人です。演劇実験室「天井桟敷」を主催。衝撃的な作品を世に残しています。舞台「身毒丸」は1997年に藤原竜也が15歳で演じ今も話題を集めています。
私は寺山作品に触れると言い知れない不安感とドキドキした気持ちに苛まれます。反面、その文章や舞台の持つ怪しい美しさにはっとして、いつまでもその世界感に浸ってしまうのです。
今も大勢の人に影響を与えている寺山修司が「さよならだけが人生だ」という言葉を受けて作った「幸福が遠すぎたら」という詩をご存知ですか。私は今回はじめて読み、感銘を受けました。

さよならだけが 人生ならば また来る春は 何だろう
はるかなはるかな 地の果てに 咲いている 野の百合 何だろう

さよならだけが 人生ならば めぐり会う日は 何だろう
やさしいやさしい 夕焼と ふたりの愛は 何だろう

さよならだけが 人生ならば 建てた我が家 なんだろう
さみしいさみしい 平原に ともす灯りは 何だろう

さよならだけが 人生ならば 人生なんか いりません

                            寺山修司 : 幸福が遠すぎたら

寺山修司は幼少の頃、父親を戦争で亡くしています。また、母親と別れて親戚と暮らしたこともあったと言います。そんな数々の孤独に耐えるために唱えた呪文は「だいせんじがけだらなよさ」でした。寺山は「さよならだけが人生だ」を逆さに唱えて悲しい時のおまじないにするという詩も発表しています。先生が私に伝授したのはまさにこれですね。元ネタがあったとはいやー知りませんでした。

また寺山修司主催の天井桟敷に所属していたカルメン・マキが「幸福が遠すぎたら」を歌っていました。今でもApple Musicで聴くことができます。そしてカルメン・マキは「だいせんじがけだらなよさ」という歌も歌っているんですね!

カルメンマキ 「真夜中詩集」

若き私が引き継いだ呪文は昔から唱えている人がいたということ。効き目もばっちりな気がします。時を超えて悲しい時の呪文は受け継がれていくのかも知れません。

さよならは避けては通れない

今回「さよならだけが人生だ」という言葉について調べてみました。寺山修司は「幸福が遠すぎたら」で「さよならだけが人生ならば 人生なんかいりません」と締めくくっています。人生なんか いりません と言い切るくらい人生がさよならだけでないことを願いたい気持ちが伝わります。

高校生の時から私もさらに様々な別れを経験しました。親との永遠の別れも知りました。なるほど人生においてさよならは避けて通れないことなんですね。少しわかりました。出会いがあれば別れも同じ数あり、出会わなければ辛くなかったのに、と思うような痛烈な別れもあります。
だからこそ、出会えた人との日々を大切に歩みたい。必ず訪れるさよならに怯えることなく後悔のない時を過ごしたいものです。

終わりに

「さよならだけが人生だ」が真実なのかは人生を終える時にわかるかも知れませんね

何だか収集つかないゾーンに入り、支離滅裂になってしまいました。
こんなブログに来て下さった方、ほんとにありがとうございます!!!素敵な日々をお過ごしください。